2020年3月より、noteにてブログをつづります。
のんびり散歩に出かけてみた。新曲2曲の作詞をやる必要があるから、敢えて散歩です。少し遠めの、よく創作するときに使うコーヒー屋さんまで自転車で足を伸ばそうと思って漕ぎ始めたけど、なんか違う。スピード感が違う。自転車を漕ぐスピードはどうも思索に向いていないようで、すぐに止めた。デモ音源のテンポに合わせて歩を刻む、これに限るなあと思いながら昼前の太陽に向かって歩きました。
思考の当てがない場合は、進む方向にも当てがないに越したことはないです。ただただ歩く。曲がり角に来たらどっちかに曲がるか、そのまま直進するか。大通りは嫌いだから大概は裏路地をぶらつく。歩きスマホならぬ歩き読書とかカマすもんだから気付いたら目の前が塀だし。眼前の文章を追いつつも、ゆっくりと辺りの景色も同時に味わう、という行為が昔からとても好きで。なんとも異様な野郎が路地裏に出現することにはなるのだけど。
夏はいつの間にか過ぎ去った訳ではなくて、日々こくこくと同じペースを刻んで過ぎてゆく季節。これを肌で感じながら生活して行くことが大事なんだなあと改めて思っております。いろいろと新しいことにも乗り出さなきゃなと気持ちを新たにする季節の到来です。秋。
滞ったどこの騒ぎじゃないや。もう一年以上ここで書いてなかったんだ。いやあ、日々の雑音に身を委ねていると本当の音が聴き分けられなくなるから注意が必要ですなぁ。でも雑音がない世界もそれはそれで非常に生きにくい世界なはずで、というかなんとも気味の悪い居心地の宜しくない空間なはずで、ずーっとシーンとしてて、そりゃもうシーンとし過ぎてるから、いつからかずーっとキーンと耳鳴りがしている錯覚に陥ってしまって、きっとそれがキーンと聴覚的に体感できるまでの本当の耳鳴りに発展してしまい、、ああ考えただけでも恐ろしい、完全の無音ってのもそれはそれで酷ですよ。なにごとも中庸が調子イイってなことですわ詰まるとこ。ってなんのこっちゃですが、ぼくももう最近はあまり無駄に酒ばっか呑まないようにしております(昨日から)本年の抱負らしきものとして毎日、何かしらの文章を書き連ねようぞと自らに課してみたのですが、まだ二日と実現できていない使用もない阿保野郎ですよボカア、いや本当に、惰性を背負って生きているような愚図です。朝からの曇天が嘘のように晴れ渡った午後、自分のそんな駄目さ加減がよりいっそう露わになってしまい、その存在感たるや否応なく迫り来るようで、もう尻尾巻いて逃げる、というよりはむしろ開き直って光の方に進み出し、散歩するしかないんです。降り注ぐ光、からだを包み込む熱、ぬくもり、暖、、しかしさぁ、まあそんな悲観するこたないよキミ、その調子っ外れた人生観も捨てたもんじゃないかも知れんよ、なんて優しく励まされている気がしてたちまちに元気を取り戻すの繰り返し。イイ気なもんです。そんな私にも一週間ほど前から些細な楽しみができまして、一緒にバンドやっている岡本くんに今までの深夜食堂、全部ユーチューブに落っこってっから観てみマジ、セイジぜってえ好きだって、いやもう本当サイコーなんだよ小林薫、って耳寄りな情報を頂いたその晩から小林薫に癒されております。暖。
非難することは容易い。避難することも簡単だ。
ニュースってのは、大きくなればなるほど、一方通行になってしまう。
みんなすぐに答えが欲しくなるから、いつも答えは単純化されてしまう。
僕らはただ、もっと知らないことを知る必要があるんだと思う。
知らない場所を訪ね、知らない本を読み、知らない音楽を聴いて、知らない宗教や文化を習い、知らない人々と交流して、知らない食べ物を食べ、知らない酒を呑む。それはこの国の、この街角でもできること。
いつもの日常から離れた場所にこそ、そーっと、答えは隠れているものだから。
そんなこと考えていたら僕も僕で、、焦燥感、今年こそ本当にバンジョーを買って練習しようと思う。マンドリンでもいいけど。ってなんじゃそりゃ。
ブログがまた滞ってました…
ただ都知事選の前に必ず更新せねばという思いだけで久しぶりに書きます。
何もかもが大いなるチカラに牛耳られてゆく、そしてそれは数のチカラに寄るところが大きい。民主主義の根源が揺らいでしまうほどの悪法を強引に通そうとするチカラは、数のチカラに守られている。これはもうどうしようもない現実、少数がどんなに声を荒げても、もちろん数のチカラには敵わない。マイノリティが出すただの「ノイズ」は、逆に数のチカラが出す音に吸収される他ない。
しかし有権者の大多数は盲目的にその数のチカラに加担しているのだとしたら、これはどうにかしないといけない。次の都知事がいったい誰になろうが構わない、という人はかなり大勢いることが想像される。なんとなく舛添さんが人気あるみたいだから乗っかろう、宇都宮さんは死んだ爺さんに似ているから信頼できる、田母神さんはブレない右攻めの姿勢がたくましい、細川さんは脱原発以外は何を考えているのだろう、家入さんはアタシよか年下だ、ドクター中松はもう85歳なのか、みんな候補者に対して勝手なご感想をお持ちだろう。
数のチカラに盲目的に加担してしまう一番のそれは「投票しない」、この行為に尽きる。一票を入れる、とにかく投票権を行使する。われわれ一般小市民が責任を持ってこれをしなければ、組織票を糧にする数のチカラが歓ぶだけです。
脱原発が焦点になる選挙は今後はもうないだろう。数のチカラは数のチカラでしか勝てないのだとしたら、悲しいかな今回も現状は打開されそうにない…
どんなチカラが幅を利かせようが、現実を注視する、そして流されずに「自ら考えた」未来を模索する、これはボクら有権者に課された最低限の責務だと思う。
日曜日は東京都知事選、勇んで投票にイキましょう。
やはり忙しく夏はすぎてゆきました。
なんだかバタバタしているうちに無事、第三子が元気いっぱいに産まれてきてくれて、というか女房が産み落としてくれて、ほっと胸を撫で下ろしているうちに9月になっており。しかし出産、今回も幸運にも立ち会うことが叶いましたが、いやあ、この神秘はなんとも筆舌尽くしがたい。妻とボクは完全に自然なお産、日本人がその昔から脈々と受け継いできた産婆スタイルのそれをリスペクトするところもあり、今回も医療措置をいっさい施さないオールドスクールな助産院を選びました。
苦痛なくスルリと生まれる赤ん坊は泣かないと、読んでいた話でありましたが、今回まさにそれで、すっぽーーんと黙って出てきて、身体少し拭かれて泣いたくらいなもんで、すぐに母親の上で眠り惚けてしまい、そんな女房と赤ん坊の絶妙な連係プレーを目の当たりにしてココロが熱くなったもんです。
そんなで我が家は仲間がひとり増えて賑やかしくやっております。お近くお出での際は冷やかしついでに御立ちより頂ければ幸いであります。
いろいろありつつも夏は粛々とすぎてゆき、北海道行ったり湘南行ったり川崎湾岸行ったりとバンド活動も忙しなくやっております。これはもう普段のシゴトとは切り離された、シノギの域です。新作の録音に向けても動いたり、月末からは実際の録音作業が始まったりと…まだまだ仕上げなければならない作詞に追われている始末。小生の悪い癖、ついつい怒ってしまうのであります。この世、人間、政治、状況、環境、体制、システム、法律、行政、賑々しい日常を踊り倒したような詞を書いてやりたい気持ちはクレイジー山山なのですが、ついつい怒ってしまう。この怒りを旨い具合に笑い、やら愛情、やら遊び、やら物語、にカタチを変えて行く仕事こそ小生の役回りであります。
がしかし、ひとこと言わせて頂きたい。オリンピックで人のココロを弄ぶなど言語道断です。もちろん、スポーツには一切、なんの罪もない。スポーツが生むドラマには純粋な感動がある。それをお上は百も承知の上だから、なおさら薄汚いのです。0.3平方キロメートル内に完全にブロックできている、などという妄言が、オリンピックという祭典、狂騒の影に隠れたまま、闇に葬られないことを切に願う。もう決まってしまったのだから仕方がないこととして、7年間、がんばろうではありませんか。開催にかかる莫大な費用は国から都から、すなわち市民の血税から捻出されるのだとしたら、そんな莫大な資本、もっと他に使い道あんだろって気持ちはあります。そんな気持ちしかないって言った方が良いかも知れない。でもまあ、もう決まったのだから仕方がない。ただのバカ騒ぎに流されず、状況をつぶさに観察して行こうではありませんか。震災のこと、被災地のことを忘れない、被災者、避難生活者の保証、援助、その全てにまつわる復興の火を決して絶やさない、そんな力に変えてやろうではありませんか。お金は正しく、意味のあることに使って頂きたい。それだけです。
このお祭り騒ぎに惑わされてはならない。祝いごとが盛り上がっているその裏で、人知れず広がってゆく闇、これはなかなかに見落としやすいモノなのです。
そろそろ大量の作詞を片付けなくては、という焦燥感ばかりを抱えて先週は富士山嶺は河口湖畔で一泊の家族旅行。臨月に突入したハラデカ女房の為、せめてもの骨休めとして。赤ん坊はもう今か今かと脱出のチャンスを伺っているのだ。そろそろ産み落とされたいはずだ。
河口湖。湖面は近くまで迫った青空をいっぱいに映して、おとなしく佇んでいた。時おり、高速で出発してゆくモーターボートの波だけを一筋残して、落ち着き払っている。山岳地帯特有の綿菓子みたいな雲が富士山をすっぽり隠してしまっていて、間近にそびえるはずの山嶺が見えない。おそらく、この雲は一日晴れないだろう。
大粒のにわか雨が辺りを濡らしはじめた頃、走り回る子供たちを叱り飛ばしながら貧相な遊覧船に乗り込んだ。しかし空はまだ明るさを保っている。まだ充分に蒼い湖面を雨は叩き、細かなつぶ模様を描く。力が抜けるほどユルい船内放送を肴に缶ビールやら酎ハイを呑む。トウキョウから2時間もしないでこのシチュエーション、日本は狭いなと改めて思う。逆に2時間もあればこんなとこでぼけっと酒が呑めるのか、なんでもない幸せをボクらは知らずに見逃して、見過ごして生きているのだろう、まあ、そんなものなんだろう。
よい旅だった。
のんびり散歩に出かけてみた。新曲2曲の作詞をやる必要があるから、敢えて散歩です。少し遠めの、よく創作するときに使うコーヒー屋さんまで自転車で足を伸ばそうと思って漕ぎ始めたけど、なんか違う。スピード感が違う。自転車を漕ぐスピードはどうも思索に向いていないようで、すぐに止めた。デモ音源のテンポに合わせて歩を刻む、これに限るなあと思いながら昼前の太陽に向かって歩きました。
思考の当てがない場合は、進む方向にも当てがないに越したことはないです。ただただ歩く。曲がり角に来たらどっちかに曲がるか、そのまま直進するか。大通りは嫌いだから大概は裏路地をぶらつく。歩きスマホならぬ歩き読書とかカマすもんだから気付いたら目の前が塀だし。眼前の文章を追いつつも、ゆっくりと辺りの景色も同時に味わう、という行為が昔からとても好きで。なんとも異様な野郎が路地裏に出現することにはなるのだけど。
夏はいつの間にか過ぎ去った訳ではなくて、日々こくこくと同じペースを刻んで過ぎてゆく季節。これを肌で感じながら生活して行くことが大事なんだなあと改めて思っております。いろいろと新しいことにも乗り出さなきゃなと気持ちを新たにする季節の到来です。秋。
滞ったどこの騒ぎじゃないや。もう一年以上ここで書いてなかったんだ。いやあ、日々の雑音に身を委ねていると本当の音が聴き分けられなくなるから注意が必要ですなぁ。でも雑音がない世界もそれはそれで非常に生きにくい世界なはずで、というかなんとも気味の悪い居心地の宜しくない空間なはずで、ずーっとシーンとしてて、そりゃもうシーンとし過ぎてるから、いつからかずーっとキーンと耳鳴りがしている錯覚に陥ってしまって、きっとそれがキーンと聴覚的に体感できるまでの本当の耳鳴りに発展してしまい、、ああ考えただけでも恐ろしい、完全の無音ってのもそれはそれで酷ですよ。なにごとも中庸が調子イイってなことですわ詰まるとこ。ってなんのこっちゃですが、ぼくももう最近はあまり無駄に酒ばっか呑まないようにしております(昨日から)本年の抱負らしきものとして毎日、何かしらの文章を書き連ねようぞと自らに課してみたのですが、まだ二日と実現できていない使用もない阿保野郎ですよボカア、いや本当に、惰性を背負って生きているような愚図です。朝からの曇天が嘘のように晴れ渡った午後、自分のそんな駄目さ加減がよりいっそう露わになってしまい、その存在感たるや否応なく迫り来るようで、もう尻尾巻いて逃げる、というよりはむしろ開き直って光の方に進み出し、散歩するしかないんです。降り注ぐ光、からだを包み込む熱、ぬくもり、暖、、しかしさぁ、まあそんな悲観するこたないよキミ、その調子っ外れた人生観も捨てたもんじゃないかも知れんよ、なんて優しく励まされている気がしてたちまちに元気を取り戻すの繰り返し。イイ気なもんです。そんな私にも一週間ほど前から些細な楽しみができまして、一緒にバンドやっている岡本くんに今までの深夜食堂、全部ユーチューブに落っこってっから観てみマジ、セイジぜってえ好きだって、いやもう本当サイコーなんだよ小林薫、って耳寄りな情報を頂いたその晩から小林薫に癒されております。暖。
非難することは容易い。避難することも簡単だ。
ニュースってのは、大きくなればなるほど、一方通行になってしまう。
みんなすぐに答えが欲しくなるから、いつも答えは単純化されてしまう。
僕らはただ、もっと知らないことを知る必要があるんだと思う。
知らない場所を訪ね、知らない本を読み、知らない音楽を聴いて、知らない宗教や文化を習い、知らない人々と交流して、知らない食べ物を食べ、知らない酒を呑む。それはこの国の、この街角でもできること。
いつもの日常から離れた場所にこそ、そーっと、答えは隠れているものだから。
そんなこと考えていたら僕も僕で、、焦燥感、今年こそ本当にバンジョーを買って練習しようと思う。マンドリンでもいいけど。ってなんじゃそりゃ。
ブログがまた滞ってました…
ただ都知事選の前に必ず更新せねばという思いだけで久しぶりに書きます。
何もかもが大いなるチカラに牛耳られてゆく、そしてそれは数のチカラに寄るところが大きい。民主主義の根源が揺らいでしまうほどの悪法を強引に通そうとするチカラは、数のチカラに守られている。これはもうどうしようもない現実、少数がどんなに声を荒げても、もちろん数のチカラには敵わない。マイノリティが出すただの「ノイズ」は、逆に数のチカラが出す音に吸収される他ない。
しかし有権者の大多数は盲目的にその数のチカラに加担しているのだとしたら、これはどうにかしないといけない。次の都知事がいったい誰になろうが構わない、という人はかなり大勢いることが想像される。なんとなく舛添さんが人気あるみたいだから乗っかろう、宇都宮さんは死んだ爺さんに似ているから信頼できる、田母神さんはブレない右攻めの姿勢がたくましい、細川さんは脱原発以外は何を考えているのだろう、家入さんはアタシよか年下だ、ドクター中松はもう85歳なのか、みんな候補者に対して勝手なご感想をお持ちだろう。
数のチカラに盲目的に加担してしまう一番のそれは「投票しない」、この行為に尽きる。一票を入れる、とにかく投票権を行使する。われわれ一般小市民が責任を持ってこれをしなければ、組織票を糧にする数のチカラが歓ぶだけです。
脱原発が焦点になる選挙は今後はもうないだろう。数のチカラは数のチカラでしか勝てないのだとしたら、悲しいかな今回も現状は打開されそうにない…
どんなチカラが幅を利かせようが、現実を注視する、そして流されずに「自ら考えた」未来を模索する、これはボクら有権者に課された最低限の責務だと思う。
日曜日は東京都知事選、勇んで投票にイキましょう。
やはり忙しく夏はすぎてゆきました。
なんだかバタバタしているうちに無事、第三子が元気いっぱいに産まれてきてくれて、というか女房が産み落としてくれて、ほっと胸を撫で下ろしているうちに9月になっており。しかし出産、今回も幸運にも立ち会うことが叶いましたが、いやあ、この神秘はなんとも筆舌尽くしがたい。妻とボクは完全に自然なお産、日本人がその昔から脈々と受け継いできた産婆スタイルのそれをリスペクトするところもあり、今回も医療措置をいっさい施さないオールドスクールな助産院を選びました。
苦痛なくスルリと生まれる赤ん坊は泣かないと、読んでいた話でありましたが、今回まさにそれで、すっぽーーんと黙って出てきて、身体少し拭かれて泣いたくらいなもんで、すぐに母親の上で眠り惚けてしまい、そんな女房と赤ん坊の絶妙な連係プレーを目の当たりにしてココロが熱くなったもんです。
そんなで我が家は仲間がひとり増えて賑やかしくやっております。お近くお出での際は冷やかしついでに御立ちより頂ければ幸いであります。
いろいろありつつも夏は粛々とすぎてゆき、北海道行ったり湘南行ったり川崎湾岸行ったりとバンド活動も忙しなくやっております。これはもう普段のシゴトとは切り離された、シノギの域です。新作の録音に向けても動いたり、月末からは実際の録音作業が始まったりと…まだまだ仕上げなければならない作詞に追われている始末。小生の悪い癖、ついつい怒ってしまうのであります。この世、人間、政治、状況、環境、体制、システム、法律、行政、賑々しい日常を踊り倒したような詞を書いてやりたい気持ちはクレイジー山山なのですが、ついつい怒ってしまう。この怒りを旨い具合に笑い、やら愛情、やら遊び、やら物語、にカタチを変えて行く仕事こそ小生の役回りであります。
がしかし、ひとこと言わせて頂きたい。オリンピックで人のココロを弄ぶなど言語道断です。もちろん、スポーツには一切、なんの罪もない。スポーツが生むドラマには純粋な感動がある。それをお上は百も承知の上だから、なおさら薄汚いのです。0.3平方キロメートル内に完全にブロックできている、などという妄言が、オリンピックという祭典、狂騒の影に隠れたまま、闇に葬られないことを切に願う。もう決まってしまったのだから仕方がないこととして、7年間、がんばろうではありませんか。開催にかかる莫大な費用は国から都から、すなわち市民の血税から捻出されるのだとしたら、そんな莫大な資本、もっと他に使い道あんだろって気持ちはあります。そんな気持ちしかないって言った方が良いかも知れない。でもまあ、もう決まったのだから仕方がない。ただのバカ騒ぎに流されず、状況をつぶさに観察して行こうではありませんか。震災のこと、被災地のことを忘れない、被災者、避難生活者の保証、援助、その全てにまつわる復興の火を決して絶やさない、そんな力に変えてやろうではありませんか。お金は正しく、意味のあることに使って頂きたい。それだけです。
このお祭り騒ぎに惑わされてはならない。祝いごとが盛り上がっているその裏で、人知れず広がってゆく闇、これはなかなかに見落としやすいモノなのです。
そろそろ大量の作詞を片付けなくては、という焦燥感ばかりを抱えて先週は富士山嶺は河口湖畔で一泊の家族旅行。臨月に突入したハラデカ女房の為、せめてもの骨休めとして。赤ん坊はもう今か今かと脱出のチャンスを伺っているのだ。そろそろ産み落とされたいはずだ。
河口湖。湖面は近くまで迫った青空をいっぱいに映して、おとなしく佇んでいた。時おり、高速で出発してゆくモーターボートの波だけを一筋残して、落ち着き払っている。山岳地帯特有の綿菓子みたいな雲が富士山をすっぽり隠してしまっていて、間近にそびえるはずの山嶺が見えない。おそらく、この雲は一日晴れないだろう。
大粒のにわか雨が辺りを濡らしはじめた頃、走り回る子供たちを叱り飛ばしながら貧相な遊覧船に乗り込んだ。しかし空はまだ明るさを保っている。まだ充分に蒼い湖面を雨は叩き、細かなつぶ模様を描く。力が抜けるほどユルい船内放送を肴に缶ビールやら酎ハイを呑む。トウキョウから2時間もしないでこのシチュエーション、日本は狭いなと改めて思う。逆に2時間もあればこんなとこでぼけっと酒が呑めるのか、なんでもない幸せをボクらは知らずに見逃して、見過ごして生きているのだろう、まあ、そんなものなんだろう。
よい旅だった。
誰もが想像する結果に終わった参院選。とほほであります。選挙区別では沖縄県、岩手県、福島県、東京都あたりの結果が象徴的だった。そして早くも怪しい動きを連発する安倍自民、われわれ一般小市民が目を光らせなければいけない。山本太郎さんの当選で東浩紀さんが実も蓋もないディスり方してたけど、やっぱり世の中いろいろな考え方があるんだと。三宅洋平さんの登場は、政治参加が皆無だった層を呼び覚ました。もちろん政治家としての手腕など未知数、ミュージシャンだし。でも皆は彼から未来の政治家に対する希望を見たのだった。そこに自分の一票を託したいと、これがオルターナティブな選択だと。現実的な屁理屈をこねる前に、とにかく「動く」。これは本当に大事なことです。多角的な意見の集約、これも大事なのでひとまずボクは件の東浩紀氏編集「チェルノブイリ ダークツーリズムガイド」を取り寄せ読んでます。原子力の問題は根深い。為政者はこの「原罪」にもっと向き合うべきです。
誰もが自分の「正論」を振りかざして生きている。これに尽きます。改めてこの原点に立ち返る。この自覚を胸に深く刻んでボクは自分の制作活動に還元しなければ、と改めて感じている。
さあ、夏は忙しくなりそうだ。
イスラエルに加担する米外資のコーヒーチェーンで、冷えたコーヒーを啜りながら久々のブログを書いてみる。選挙のことだ。
将来が決定的に変わってしまう可能性がある選挙が四日後の日曜に控えている。きっとまた投票率は振るわず、巨大政党が組織票にものを言わせて過半数を握ってしまうだろう空虚な青写真は見えかけている。悲しいかな。しかしなぜこうなるのか?毎度自分がいかなるマイノリティかを思い知らされる選挙、でもボクは投票する。
若者よ、まあ若者を問わずだけど、投票に行かない人はなぜ投票に行かないのか?投票率が60%ないとなると10人に4人は行っていない。都内でみると45%あたりらしいので半分強は投票に行かない。どうしてなのか?政治に何も期待していない、単純に興味がないだけ、理由はいくらでもあるだろう。でもそれでは組織票をがっつり握る巨大政党が得をするだけ。せっかくの投票権、地味でもひとりひとりが行使する必要に迫られている。
TPP、原発、改憲論、沖縄問題、消費税、外交、復興、あまたある問題が今大きな岐路に立ち、権力を集約しつつある巨大政党が意のままにしてしまう危険、これは本当に後戻りできないほどの威力を持った政策ばかりで、これらにこそ「今」、今回の参院選で異を唱えないと本当に手遅れになる。
今みんなが政治について語る必要がある。ネットのおかげで個人が力を持つ世の中になったのだから、手遅れになる前に。ムキになって権力に抵抗する姿勢は野暮ったい?自分がじゃぶじゃぶ浸かっている社会生活に波風立てたくない?自分ひとりが投票したところで何も変わらない?いやいや、今ひとりひとりが真実を知る目をしっかりと鍛えなければ、子供の未来は本当になくなることを知るべきなんだ。
福島は依然として地獄の果てに追いやられている。事後処理が遅々として進まない中、安倍さんは原発技術を輸出することに躍起になる。自分の国を放射能まみれにしたまま、他国にそれを売り歩く挙動は明らかに狂っている。でもその現実は、この狂った現実はいつの間にか「普通」のこととして受け入れられている。あの震災から、原発事故から一体なにを学んだと言うのか?時間が経てば人間はすぐに現状に慣れてしまう、忘れてしまう。大事なことがなかったことになる。福島は都合良く今の「現実」から隔絶された場所でも何でもなく、この小さな島国の一部だということ、外国から見たらフクシマもトウキョウもない、それは全部ニッポンだという自覚を改めて胸に刻む必要がある。
マスメディアの隠蔽体質。善良な国民はテレビや新聞の情報だけを頼りにしている人も少なくないだろう。しかし本当に知らされるべきことが、網の目に掬われたままになっていることも知る必要がある。政府の不都合は大概が国民の目に届かないようになっているから。
経済うんぬん言っている奴らをボクは絶対に信じない。それは面倒を人に押し付け、自分たちだけイイ思いをしたいという物質至上主義の権現だ。経団連とアメリカにしか良い顔をしない政府など誰が必要としているのか?誰のための自由貿易協定なのか?誰のための原発推進なのか?誰のための憲法改正なのか?
Our generation, the next generationの勇気と行動力を体現している二人、東京選挙区の山本太郎さん、全国比例区から立候補の三宅洋平さん。現状の打破、真実に立ち向かう姿勢と勇気。ボクは彼らを全力で支持する。今はまだ小さいこのウネリを、全力で国会まで押し上げることに手を差し伸べるときだ。二人が当選したところで、世の中に変化はないかも知れない。いや、ないだろう。でも同じ意思を抱いた後陣が成長し、現代的な価値観を持って、間違った政治にNOを突きつける土壌は必ず育つはずだ。本来、政治的な議論はもっともっと我々の身近にあるべきものだから。
みんな投票に行こう。何が正解かを自分の「目」で見極めよう。その「目」を持って、ボクらは100年後の未来まで想像しなければならない。今を生きる人間の一人として、その義務がある。
「犯罪者であってもすやすや眠る、素晴らしき世界だね」この下りが大好きです。そんな中村一義さんとライヴでご一緒することになりました。これはひょんな繋がりで実現した訳ですが、本当に光栄な話で、もうなんというか久しぶりに、真面目にギターを弾かなきゃって気持ちでいっぱいです。
さて、「予想以上に、予想以上に、夢は夢としてすぎてゆく」と中村氏もおっしゃる通り、最近かなりとりとめのない、あまりにアヴァンギャルドな夢ばかり見るわけですが、起きた瞬間しかその夢の実態を記憶していないのです。レム睡眠地獄。缶酎ハイの呑み過ぎかな…
ボクは個人的に幼い頃からこの現実世界に自分の「夢」を投影することが苦手です。将来なになにになりたい、例えば大人になったらアフリカ大陸を縦断したいとか、外資系の投資会社でばりばり稼いでカイエンを乗り回したいとか、35までには頭金3000万突っ込んで庭付きの一戸建てに住みたいとか、死ぬまでに絶対宇宙に行ってみたいとか、権力者になって国家を動かしたいとか、とか。
そう、元来「無気力」に出来上がっているこの精神構造が由来していることは確かで、もうこんなんじゃ駄目だと、昨日36歳に変身した我が身を顧みて、この自堕落な己に喝を入れることに決めた。夢みるその力が強ければ強いほど、それを実現する力が強いことは知っている。
今年は「夢」を持って生きようと思う。さあ、まずその「夢」を探すところから始めよう。
ダンス、つまり踊ることについて考えていた。もしも地球上のみんながキレッキレのダンサーだったら、きっとこの世の中は相当分の哀しみから解放されるだろうと思う。マイケルジャクソンの死に甚く傷心した教育委員会の大御所が、きっとそんなところに行き着いて小学校のダンスを必修科目にしたんだと思われる。うちにいる一匹のウルフも、訊いたことはないけど、きっと、世に垂れ込める哀しみのベールを自ら払い除けるため、はたまた、ライヴを楽しみに来たみんなの蓄積したストレスを少しでも解消するために、舞台上で踊っているのだと想像する。あいつはああ見えて、大した慈善家なのかも知れない。ダンスはいいな、みんなもっと踊るべきだと思うな。
関係ないけど、ものすごいアドベンチャーな夢をみる、派手にポケットWiFiを落としてクラッシュ!ってそれまでの規模と比べてあまりに些細なエンディングの夢をみる。しかし夢の中で始終ボクを援護してくれた白髪の米国人は一体誰だったのだろう。見たことも会ったこともない人だった。でも遠くない将来、現実に会うことになりそうな予感のする人だった。
小生の家内は恐妻家として辺りを震撼させて久しく、いやあしかし政治のカミサンはおっかねえよという名を欲しいままにしている。愛情が錯綜してしまった果てに夫に振り下ろされる地獄の鞭はそれはそれは、常人であれば二振りも喰らえば死に至る代物である。ジェイソンステイサムあたりが主演するハードボイルド映画よろしく、小生も数々の修羅場をくぐり抜け(二階の小窓もくぐり抜け)、幾多もの死闘を繰り広げて来た訳だが、昨夜も晴れてまた、この凄惨の歴史に1ページが加わることと相成った。いやいや、でも昨夜のはまだ軽いほうで、固く閉ざされた寝室の襖をどうにか外してエンター、無事に寝床に辿り着けたのだから。
そして申し訳ありませんでした、、何千回目かの猛省の果てに悔悟の舞を、晴れやかなヤツを一発、精一杯舞わせて頂きます。
そう、人生とは決して終わることのないダンスなのだから。
夕暮れを待っていたはずが、その遥か前にいつの間にやら酎ハイの缶が空いてしまう。なんだか最近また酒を呑みすぎて大事なコトを見落としている気がしてならない。自重自重、しっかりしろ。天気が良い日が続くともうそれだけで酒を呑む理由ができた気がしていけない。春は難しい季節です。
そんなこんなで巷はゴールデンウィークに突入している浮かれっぷりであり、ボクもまた陽光の下、芝生の公園で浮かれてみたり。葡萄酒などを呑みながら世界は平和だなとへらへら顔をぶら下げてみたり。駄目駄目である。夜からは独り、楽しみにしていた早川義夫さんのライヴに馳せ参じる。佐久間正英さんとのコンビネーションが絶妙で途中なんども泣きそうになる。そしてまた独り酩酊、帰投、添い寝、寝落ち。
なぜか坂本龍一教授がその昔プロヂュース、巻頭に篠山紀信氏が取り下ろした写真が贅沢に収められた「ゴクミ語録」なる文庫本が手元にあって、それは後藤久美子(ゴクミ)がまだ瑞々しい1987年の中学生で、彼女の天才的な語録の数々を文庫本として編纂したものであって、これが半端ではない切れ味なのである。それをぺらぺらやりながら思索に耽っていたら雨が降ってきたので急いで室内に避難した午後、村上春樹の新刊が恐ろしいほどの壁となって店内の入り口に防潮堤のごときを築いていた。
冬期に蓄えてしまった腹帯とおさらばすべく、ずいぶん久しぶりにスイミングにイキ之助イキ太郎。肺活量の衰退はそこまで露骨ではなかったので一安心。しかしここ数日またすこぶる目が痒い…中空を好からぬモノが舞い過ぎなのだろうか。
しかしヘルマンHに本復帰した4月のライヴはあっという間に終わり、大阪の地でも公演、翌日こどものダンス発表会のために新幹線でとんぼ返りしたのが遥か昔の話のように思えるなあ。各ライヴに参戦してくれたお客さん、応援に駆けつけてくれた友人、関係者各位、スタッフとバンドメンバーには多大なる感謝の気持ちが溢れております。長年支え続けてくれるみんながいるから今のバンドがあります。これからもライヴをちょこちょこ控えてますが、加えて新しい音源をはやく世に発表できるように頑張りたいと思います。
なんだか大げさな言葉で語られがちですが、ボクなんかは悪ノリ悪ふざけをする為にまたバンドに戻ったようなもんで、こいつらと本気(と書いてマジ)でヤラかせばまた想像以上のエネルギーが世界に放出され、その塊が壮快なコーラスとなって自分ら、ひいては体感してくれるみんなの生活をよりマシなものにするための悪ノリ悪ふざけ。ロックンロールがどうだとか、そんな美談ではなくて、ただイイ大人がちょっとやり残したイタズラを再開させたまでのこと。この姿勢から溢れるメッセージをじっくりと、いつまでも紡いでゆく、それこそが個人的な責務だと思っています。
矛盾と理不尽があふれる世界にフラストレーションばかりが溜まってしまって、どうしても否定から物事を考える癖がついてしまう。肯定から解決の糸口を見つけてゆくことの大切さ、それに改めて気づかされるのだから今更お前は目出たい男だよ。いつまでも背が縮こまる春風に吹かれながらそんなことを思う日々です。
むむむ、花粉がすごいね今期は…
当初から猛烈な飛散量が懸念されていたこともあり、マスクにメガネ的な装いですこぶるシーズナルな人間として街を歩く。
なんだか日々いろいろなことが起っているようで、相変わらず雑食性、というかトッ散らかった仕事をしている所為もあって、一日の終わりに夜空を見上げてその虚無に身を任せてみると、果たして自分なんてなーんもしていない気がして来る。否、自分が一番わかっているのだね、まだまだ限界に迫ってないのよ、全然お話にならないのよお前の頑張りは、と真っ黒な夜空に叱られているみたいなのだね。ブッキラボウで良いんだまた、その無愛想な檄がなんだか優しくて良いのだね。
最近古巣でバンド活動を再開したのだけど、いやあ5時間6時間、7人もの人間が爆音を出している空間ってのは思いのほか体力を消耗するもんです。疲れる。ウチ一人は熊谷、一人は茅ヶ崎に終わって22時すぎに出発するのだからその後ろ姿は逞しい。徒歩15分の場所に住んでいる自分がとても申し訳なく思う。
そんな中、0311が当たり前のようにやってきて、澄まし顔で通り過ぎて行った。もう2年。さあ待ってましたとこの時ばかり、無用に感傷的になるのでは駄目だと思う。すべてを失い、癒されない現実を生きる人々がまだ大勢いる、その気持ちを毎日忘れたくない。少しでも東北の地に幸せを運べたらと思う。
原発、TPP問題と相変わらず騙し合い化かし合いを続けるこの国の首謀者はどこまで狂っていやがるのかと呆れる。呆れている場合など、そんな猶予など一刻もないことは分かっているからもっと声を上げなければと思う。
そういえばもう何ヶ月か前の話しになるけど、友人が撮影、監督をつとめたドキュメンタリー作品を上映会で観た。素晴らしかったなあ、ほんと、同世代がラウドに行っている姿勢は心底感動する。全世代、全人類に提起されたメッセージです。
http://www.abovo.jp/wp/taiga/
しかし今年もとっくに明けてましたね。みなさまどうぞ2013年もヨロSICKお願い致します。私事ではございますが、小生今年はトシオトコってヤツです。
なんだか年末からそんな動きというか流れというか、まあ世の中いつなんどきってヤツです。どんなヤツかと申しますと、もう十年以上前に脱退していたバンドとアイマミレタいうヤツでして、これがまた実にシビレルというかキテルというか、、、まあこれまた久しぶりに新曲というヤツを拵えて録音なんぞをしてみたら、これがまたどうにもこうにも目出たい仕上がりでありまして、グッときた次第でございます。バンドの魂百までとはよく言ったもんでして、腐れ縁で繋がっていたようなバンドなぞはいつ寄り戻っても同じ音が鳴るってえ摩訶不思議なヤツでありまして、底冷え著しい世の中でイッパツ祭り囃子の音頭を取っちまいそうな勢いカマンッ!みたいな。上腕二頭筋をフルに使ってこの貧弱極まる右腕を二度ほど大振りに手前にクイックイッとやってみせて、「こっちこいよ!」的なアピールをわがままな雰囲気で漂わせつつ、今年も精一杯精進して行く所存であります。みなさま今年もトシオトコのヒラトコを何卒お引き立ての程、ヨロSICKお願い致します☆
なんだか衆院選の行方がおかしい。そもそも3.11の悲劇からこの国が再出発を「政治的」な意味でキレる絶好な契機にも関わらず、世論調査で自民党が過半数の支持率を得ているという現実、これは明らかにおかしいし、国民は一体どこに向かいたいのか?幼い子どもでも少し考えたら分かるはずのことだろ?懲りずに原発を推進して行く政党に何故まだこんなにも支持が集まるのだろう。一体そんな世論はどこから湧き出て、どれほどの清き一票に成り果てるというのか?嗚呼なんとも解せないよ。別に未来の党だの共産党だの社民党だのに日本の明るい未来が託せるとは誰も思っちゃいないが、自民とか維新とかじゃないだろ?ってそう思うのはボクだけなのでしょうか?政治的な議論というのは、この国の人々はあまり表立ってしたがらない。民主が駄目だったからやっぱり自民なんだよね~って二者択一的な落ち?いやあマニフェストだとか大義名分を掲げたところで、民主党がやってくれたことを踏まえればそんなもの絵空事以外なんでもないことは誰にだって理解できる。そこに一切記述のなかった消費税増税法案を通してしまった始末なのだから。ならばだよ?あってはならないもの、この地球上にはどうしたって存続してはならないものを「廃止」するという意見にまず乗っからないと何も始まらないのではないのかい?別にいいよ、原発止めることに躍起になりすぎて、経済成長が落っこちたっていいじゃない、とはみんな思わないのかな?原発止めることで月の電気代が数千円あがったって、どうにか頑張るさとかみんな思わないのかな?対外的な威勢を強めることがそんなに大事なことなのか?まず足下見て行こうぜ、自分の国の足下を。関税がどうだこうだって言っている前に依然として狂った状態に置かれている福島を、そしてその可能性を含んだ他54基をどうにかするのが先決なのは火を見るより明らかでしょ。
何はともあれ、みんなクールに投票しに行きましょう、16日は。
にゃー、もう冬じゃん…にょろにょろ生きてると季節の移ろいが早いので秋の哀愁に浸っている余裕もなかったわい…否否、日々油断ばっかしてるからブログもこうして放置してしまう始末…「秋のココロを哀れむ」と書いて「哀愁」、オレはそんなココロを全身に纏うオトナになるべく、ここのトコロ「詞作」に耽っていたのだけど、まあ思うように筆が進んでくれないというか、頭が転がらないというか、身体だけがあっち行っては壁にぶつかってコロンと横になって気付いたら夜中で、ぬぼぅと起きてると気付いたら朝で、を繰り返す能無しのタカ派、爪をさらけ出す日々ですが…政局も大混迷を極めているから、敢えてみんなそこから目を背けるようにクリスマスムードに逃げ込んでんじゃねえぞ!スタバにいるともう既にクリスマスソングのループだから気がおかしくなりそうだぜ…にゃー、書くことイッパイあるはずだけどもうワンドゥフォークゥリィスマァスターイムとかポールマッカートニーが延々繰り返していて、少しもワンダフォーでないこの精神は折れているのだよポッキリと。ただならぬ勢いで、自分のキャパシティを越えた次元で考えを巡らせていると、それはあたかもな〜んにも考えていないのではと思われる境地…そんな漠然とした思索の空間を漂っているオレは限りなく「無」に近い能無しのタカ派である。
ジャガを祝う酒宴。ジャガとはジャガイモ所以のルックスにより名付けられた残酷極まる渾名でございます。愛くるしい男であります。このジャガを囲んでの麻布十番、巨匠一団とさぬきうどん香るビアガーデンでしこたま麦酒。
先週末は「せたがやふるさと祭り」という地獄の果てまでユルい祭りに参戦。日本全国の旨いもんが家の裏庭に勢揃いしたもんだから、もう勢い余って朝9時過ぎに北海道から居らしたウィンナーソーセージで一杯はじめちゃいの助。夜のフィナーレ、メインステージのべンチャーズの頃には眠れる森のこけし。しかしベンチャーズだよベンチャーズ?世田谷区もかなりラリッてるって話しで案の定、曲間MCの胡散臭い日本語には尋常でない貫禄が漂っていた。老後の趣味感全開のステージは圧巻で。
その前日は九十九里の瀟酒なスタジオでBBQ。今夏も必要以上に夏を楽しんでしまっている訳だけど、こんなでオレは果たして大丈夫なのだろうか??
極めつけに代田橋でオトナの遊び舎計画進行中。正に夏の終わりを締めくくるはずのラプソディー。そして忘れてはならない大目玉企画、オレはこの夏、確実に鳥取砂丘で完結してみせる。鳥取砂丘で…
ロンドン五輪。TVを打ち捨てて久しい我が家では当たり前のように観戦不能。平素このようなスポーツの祭典的なノリには付いて行けずに閉口してしまうタイプなのですが、なんだか気になる五輪。気になるからついついNHKのオリンピック特設WEBサイトを覗いてしまう。人気なさすぎてTVでは放送しない競技はWEBで中継されるので、夜な夜な飛び込みの競技とか観る日本人出てないのに。
数日前にそれらしく「いやあDNA的に無理だって、バタフライで日本人がメダル獲るなんてさ、白人には敵わない敵わない、だって筋肉が違うもん筋肉が」とか嫁に勝ち誇ってたらイカツイ日本男児が銅メダル獲った。眠そうな顔した女の子も決勝に駒を進めた。あっぱれであります。先月ちょこっと背泳ぎの寺川選手が絡んだ仕事をして、これまたメダル獲っちゃったから人ごとでなく嬉しいような。でも、なでしこジャパンって呼称はどうも嫌いなんだな、なんて思ってたら地元の祭りで「なでしこフランクだよ〜なでしこフランク〜」とか汗だくのオヤジがしゃがれ声を張り上げ張り上げ、その辺で売ってそうな平凡極まるフランクを叩き売っていたのを思い出す。商売とは「かこつけ」だね。
五輪じゃなくて曲なのだった。オレは至急、曲を作らないといけないのだ。やんなきゃやんなきゃと思えば思うほど五輪が頭を支配してしまって駄目で、ああ散歩だ散歩だと思って頭を切り替えようと夜風を浴びるとついついコンビニにエンター、今宵もキンキンに冷えた菊水の黄色缶などをぐいとやってしまうのでもう使いものになりはしやせん。
もうさすがに死んでしまうという話しで、車のエアコンのガスを注入してもらいに馴染みのスタンドに行くも、我がポンコツに入れるガスはもうないのだと。このポンコツを冷やすのはオゾン層の問題で廃止になったガスなのだと。去年までは在庫があったから入れてくれたけど、本来売るだけでも法律に触れてしまうし、そもそももう在庫がないのだと。ディーラーに持って行っても鼻で笑われて終了。コンバーターと言って、もうエアコンのシステムをまるごと交換、的な作業になってしまうので10万単位でお金が掛かってきますねェはい、とか口元笑いながら無理して神妙な顔つきしてやがるメカニック。知るか。クソ。もう知らん。もう知らん、こうなったら一家揃って茹でタコにでも、肉まんにでもなってやろうじゃねえか。窓全開で鳥取砂丘までぶっ飛ばしてやろうじゃねえか。そう、今夏は鳥取砂丘を見に行って来るのだ。植田正治の写真館に行くのだ。霧吹きと小型扇風機で乗り切ってやるぞ絶対。
保育園に通う娘からプールの時に着ている水着について、陰険な一部の上級生によって揶揄されているという涙の告白を受ける。むむ、これは由々しき問題である。それでなくとも昨今のいじめ問題で頭にきていた所なのでタイミングもまた良すぎるぞ。
しかし保育園で既にこんな問題が勃発するとは、幼児とはやはり残酷な生き物かな。まあ訴えの中身は可愛いもので、今期勇んで買い与えたアメアパの水着がこれハイレグに過ぎた為に着用時に食い込み、特に尻への食い込みが烈しいらしく、頻繁に露になってしまうその尻が笑いの標的とされ哀しいのだと。去年に使っていた水着はもうさすがにパツンパツンだと思っていたらなんと、娘としては多少キツくてもそちらの方が良いらしい。なんでも、腰の辺りに施されている「ひらひら」のレイヤー感がちびっこの間ではイケてる水着の重要ポイントらしいのだ。
なるほどと思い、翌日保育園で水着に着替えている園児を観察すると、日々いかにも「プリンセスごっこ」に興じていそうな娘らはみな揃いも揃って「ひらひら」の水着を着てふらふら回転なぞしながら満足げな笑みを浮かべているではないか!しかも娘をからかっているらしい主犯格の二人もご多分に洩れず「ひらひら」で粧し込んでやがる!なんと、そういうことかい。ならばと、本日仕事先の池袋サンシャインシティでベビザラスにエンター、しっかりと「ひらひら」のついたボトムを購入の助。アメアパのハイレグもこれで隠れ、なおかつ天下の「ひらひら」も手に入れたのだ、娘よもう何も心配ない、一件落着と相成って勝者の凱旋を果たしたのだった。
しかし娘を馬鹿にしている奴らはオレが吊るし上げて、その腰についた「ひらひら」を全て鋏でちょん切ってやろうかぁ!と一瞬鼻息を荒げたのだけど、寺山修司の名言によって踏み止まることができた。
下記に紹介:
「母性愛は美しいという発想は非情に危険だと思う。自分の息子のために命がけでやる母親というのは、他人の息子のためには命がけでやらないということと裏腹になっている。」
「悪口をいわれっ放しでいる傲岸さは、けっきょくだれにも「悪口をいわれないような、つまらぬ奴」になってゆく危険があります。しかし、現代にあって、人に悪口をいわれぬような人とは、おそらく無能な人であろう、というのが私の推理であります。」
ご明察!!
夏である。そして、もののけの嫁が隣でぼやく言葉が意味をなさない。どうやら本格的に頭がイカレタようである。そのくせ、次から次へとわけのわからない象形文字を紙にしたためている。耳にタコができるとはよく言ったもので、おれの耳にもしっかりと足が8本生えたタコが棲み着いてしまったようだ。そのタコではないか。
「あああ、海外行きたいなあ」などと繰り返しぼやいている女は自分の嫁であり、現実である。仕事もしない、運動もしない、そんな女は海外などに行けるはずはない。
夏である。きっと今年も車のエアコンは効かないのだろう。
「さてと、写真でも撮ってくるかな」
夜風でも浴びに行くような気軽な雰囲気を全身にまとい、嫁は席を立った。そしてオレはどうにもならない宿酔に身体中が痺れてしまってスタバで動けないでいた。変な汗がこめかみに浮いて使い物になりません。昨晩は小田急線経堂駅前でサンバと阿波踊りという甚だ暴力的な取り合わせのお祭りへ。商店街をサンバ隊が通り過ぎたかと思うと次は阿波踊りの編隊が過ぎて行く。意味が分からないにも程があるのです。サンバの踊り子が振る覚悟の尻。妥協のない腹まわりを見るにつけ、二週間前に拉麺と絶縁した自分の身を思い出した。
彦星と織姫に会えると楽しみにしていた娘は早々に撃沈、果たして優美な天の川が夜空を彩っていたのか、外に出て確かめるのも面倒だったので知る由もない。昨日今日と京都。この街は当たり前のように、歴史、文化が昔のまま渾然一体となって爆裂していて歩いているだけで涙が溢れそうでいけない。白川にほど近い祇園の権兵衛という蕎麦屋に入って瓶ビール呑みながら冷房が強すぎるので店員呼んで温度を上げてもらうよう頼むが一向に温かくならない。西日本は節電の意識がなかなかに低いようである。しかし出て来たあんかけうどんは飛び上がるほどに旨かった。
上野不忍池には趣のある野外音楽堂がヒッソリとある。週末、友人の口利きでこの会場に足を運んでJesse Harrisの演奏を聴いて来た。家族と友人夫婦を連れ立って訪れたら会場にも久方ぶりではあるが、良く知った友人夫婦がいた。さて、その土曜日は生の牛レバーが喰える最後の晩である。ここで重要なのは「牛」という言葉であって、すなわちどっかの馬鹿業者が不衛生な牛の生肉を客に提供して集団食中毒を起こた騒動は「牛」であったから、ここに「豚」「鶏」は該当しない。そして、平素小生が好んで食する生レバーというのは大概「豚」のそれである訳だから、「牛」の生レバーが食べれなくなったところでさして痛手はない。とすると「牛」のレバーが食べられる最後の晩餐だからといって鼻息荒く焼き肉屋に駆け込み、開口一番「すいません生レバーひとつ!」などと叫ぶ愚行に及ぶのも甚だ大人気ない。ならばと、皆ぞろぞろ大挙して上野広小路を闊歩しながら適当な居酒屋の暖簾をくぐるに至った。なんの変哲もない安居酒屋といった風情のその店がこれ非情に良かったのだ。何年かぶりに「呑み放題」という人を駄目にする割安メニューに飛びついてしまい、早々に駄目な人間に仕上がってしまった。呑み過ぎた翌日の掌は何ともいえない異臭を放つ。是非自分のを嗅いで検証頂ければと思う。
いやあイタリア勝ったねぇ、バロテッリ凄かったねぇ、なんて。
日々特にサッカーと寄り添って生きている人間では全くない自分は、何故かこの前のEURO準々決勝「イングランドvs.イタリア」のハイライト映像をYOUTUBEかなんかで観て以来、何か大きなモノに背中を押されるように、昨夜の準決勝「ドイツvs.イタリア」は観なければならない気がしていた。
調べたら深夜3:45キックオフ。んんん、世のサッカーフリークたちが一斉に寝不足になっている様なことは風の噂で聞いてはいたが、いかんせん遅すぎる、というか早すぎる。が、この開始時刻を知っても尚、観なければならないという不思議な使命感は一向に薄れない。これは確実に呼ばれていると思い、すぐに実兄に電話。彼は方々でサッカーに関する記事を書いているその道のプロだ、きっと一緒に観戦すれば楽しいに違いない。
そもそもテレビは当の昔に打ち捨ててしまっているので拙宅での観戦は不能、他所でみせてもらう他ないので車を30分も走らせれば着く距離に住む兄を頼るのは自然な流れだった。思い立ってすぐに電話、快諾してもらえたので、さあいよいよ生放送で観戦する心づもりは固まった。普段なら寝に入る時間に起きなければならないのは、多少緊張するなと思いながら、渋谷での会合を早々に切り上げて帰宅。寝酒に白ワインを煽りながら鯛の刺身をつまむ。よし準備は整ったという頃合いは23時すぎ。一心に寝床に入っては、ここのところ寝付きの為に読んでいる「日本の歴史」(平安時代まで来たので第4巻)、というマンガ仕立ての子ども用書籍を仰向けになって広げた。いつもならば 5秒で眠りに落ちるところ、これまたなかなか眠れないオレは遠足待ちの小学生か。
とまあ、めでたく3時間ばかり寝て深夜の東京を練馬区まで飛ばしたのだった。見慣れた深夜の街は眠りを挟むだけでまた違ったものに見えるから妙で。昼間に全巻読んだ「アイ・アム・ア・ヒーロー」という連載中のゾンビ系漫画のことを思い出して、少し背筋がぞっとしてエレベーターのボタンを押した。さて、当試合の兄による記事はこちら。
危機意識に苛まれた我々国民の大勢が、絶対反対との旗印を全力で掲げている鼻面に、それはそれは正確無比、心労で強ばった我らの顔面に向かって純白のパイでも投げつけるように、「※注、これは食用ではありません」などの軽薄なテロップが愚かしい画面を大仰に覆っているほど無遠慮に、なんとも汚らわしいほど丁寧に、巧妙なほど稚拙に、「私は国の代表として国民の皆様、そして我が国の国民生活を最大に考慮しその最善の方法として、現在停止中の福井県大飯原発の3号機および4号機を再起動させることに賛成する立場であります」などとナマズとタヌキを足して二で割ったような顔面をした大層な中年男がそれらしく会見したのだからもう片腹痛い。残る一方の腹は、煮えくり返る怒りやら、どす黒い濁流となって決壊する憎悪やら、単純に無の境地に達しつつある締念などがぐちゃぐちゃ一緒くたになって、オレはぐったりとしてしまった。こんなにも一度に二度美味しい腹を抱えてオレは今一度、君に嘘をつこうと思う。
「否否、絶対大丈夫だよ、結局再稼動なんかできっこないから!」
ッ、ゴォーッッ、ルゥ!!
実況アナウンサーがこめかみの薄皮を破裂せんばかりに絶叫したこの言葉は、少なくとも今夜君たちの耳に6回は響いたコトだろう。首相官邸に詰め寄って怒りを撒き散らした4千人、そして同時中継のUSTREAMにて流されたこのデモの映像をインターネット経由で参加していた他数千の怒市民(ド市民)を尻目に、テレビ画面に齧り付いて、人の頭蓋ほどの大きさのサッカーボールがゴールネットを揺らす瞬間を今か今かと固唾をのんで見守っていたことだろう。ナマズとタヌキを足して二で割ったような首相もまた、国民の大多数が日本の代表選に夢中になる晩を狙って、あの薄汚い所信表明を電波に乗せたのだ。人間の頭蓋を蹴飛ばすかの如く。
卑怯者だ。一言でいえば愚劣な卑怯者以外何者でもない。今なお苦しみの深淵で苦渋を口一杯含まされているフクシマ。マスメディアには殆ど乗らない(情報を取捨選択しているメディア側が敢えて拾わないとした方が正しいかとおもうが)、彼ら一人一人の悲痛な叫びは一体誰の耳に届くと言うのか?福島第一原発から20キロ圏内に住んでいたが為に、半永久的に我が家に帰れなくなってしまった住人の行き場のない絶望感は、250キロ離れた霞ヶ関までは決して届いていない。一年三ヶ月経っても届かない現実。
時速0.02キロ。
フクシマの悲痛な叫びはわずか時速20メートルの速度も持たないのだ。
もしくは、スーパーソニック、超音速で飛び出したにも関わらず、霞ヶ関が拵えた聞く耳が、原子力ムラで悠々自適に暮らす屑どもが私利私欲を注ぎ込んで築き上げた防御壁があまりにも頑強でその速度を、その全力の叫びを亡きものとしている。あまりに強度のある利権が癌細胞のように絡み付いている。
偶然20キロ圏内よりも少し離れていた為に強制退去を免れている人々、その中には避難したくとも出来ない現実を抱えたまま、地形と風向きが災いして毎日凄まじい量の放射線を浴びて暮らしている人々もいる。その出口の見えない不安や募る苦しみ、絶望的な孤独感もまた、皮肉なほど無力で、中央には決して届かない。
ATOMS FOR PEACE.
半世紀も前に、またしても大国の押し売りで日本の国家政策として始まった原子力の平和利用は、広島長崎に世界で初めて原子爆弾が落とされてからわずか18年後の出来事である。戦災からの復興に向けた当時の「熱」というものは計り知れないものがあったのだろう。しかしだ、熟考なく進められた挙げ句、国民も戦後のトランス状態から抜け切れずにいた所為で判断能力が無いに等しかったのではないだろうか。戦後の経済成長、膨らみ続けるGDPを支えるほどのエネルギー資源を日本は当たり前のように持っていなかった。そんな心配は原子力発電が払拭するのだという魔法を、国民はいとも容易くかけられた。ほんの一部の人間に病的な権益をもたらすように、ほとんど洗脳に近いカタチで整備されたこの原子力平和利用のシステムは、国家レベルで秘密裏に、実にコソコソと進められたのだ。
国民の大部分は盲目的に「安全」だと信じ込んでいた、もしくは今の生活が快適便利で何不自由ないしまあ少し危険で宜しくないと心のどこかで分かっていても何を言うでもなく、原子力によって作られた電力を当たり前のように享受していた。そして自分もまたその一人だった。今となってはその罪の意識、「原罪」に捕われた大多数の日本人は敢えて口をつぐんでしまっている現実も見え隠れしている。でも今こそ声を上げるべきだと思う。今ならまだ引き返せるから。間に合うから。
もちろん原発を誘致した自治体はそれによって国から補助を受けて財政を回していたのだし、地元の雇用創出に絶大なる力を与えた。しかしどんな理由があれ、もう見て見ぬ振りはできないのではないか?人類には手に負えない狂気だということは、火を見るより明らかになったのだから。
我々は過ちを犯した。それを素直に認め受け入れるときだ。
2011/03/11までの過ちを十字架として、それぞれ背負って生きて行こうではないか。
神話とされたシステムが崩壊し、現在の人類の力では修復不可能な被害をもたらし、腐敗し切った内政が明るみに出た今、歩みを揃えて踵を返すときではないのか?みんなそれは分かっているのに、何故「声」がひとつになって中央まで届かないのか?あるいは届いているのに、聞こえないふりをされているのか?憤っている人間は大勢いる。怒り狂っている民の声は結集して力を持つ時が来るのか?行き場のない無力感に苛まれるばかりだ。敢えて関係のない顔をしてネクタイ絞めて通勤通学に勤しむ奴らは一体どういった了見で生きているのか?分からない。分からないことが多すぎる中、ただ悠然と大都会の毎日は繰り返されている。根気よく焙煎された珈琲を飲みながら陽が燦々と降り注ぐパティオで、世界の不安から敢えて目を伏せるようにして皆楽しそうにお喋りに興じている。FACEBOOKのいいね!ボタンをひとつでも多く押しながら薄っぺらな交遊関係にしがみついている。自らの営業に有利に働きそうなツイートを血眼になって探しては、リツイートの機会を伺っている。仲良しごっこの毎日を精一杯生きている人間に、心理の眼を期待しても無駄なことは承知している。でも哀しいかな、我々の周囲はそんな人間で溢れ返っているのもまた事実だ。
さて、オレはどのように生きて行こうか?日々ただ純粋に考えたい。酒を呑んでも、本を読んでいても、仕事をしていても、子どもと遊んでいても、食事を用意していても、頭のどこかで考えている、今の日本社会が向いている方向の危うさを。矛盾を。一体どこに解決の糸口があるというのか?こんな文章にした所で何も解決しないのはわかっている。でも思いは言葉にしなければ何も伝わらないのだから。
先月はなんだか暇な月だった。
それなのに一回も日記を書かなかった。
でも下手クソな文章を書くのには四苦八苦していた。
そして今日誕生日を迎えたこの35歳の心は何とも穏やかのもので、
悲観に暮れる隙はどこにもない。
それは究極的な楽観主義がなせる技であると同時に、
素敵な方々に日々囲まれて生きているからに他ならないのだろう。
というと何とも聞こえが良いけれど、
特に何でもない日常を特別なものと感じて生きる術を、
いつの間にか身につけただけなのかも知れない。
AERAの表紙で笑うザッカーバーグ氏に愕然とした午後。なんだこの幼い笑顔は?こんな笑顔で時価総額何兆円もする会社を運営していると思うと、大国の輪郭がくっきりと際立った。
風で散る桜は小雪がちらついているように見えてなんだか切ないねと、娘に言うでもなく呟いた。サクラはなんでこんなに早く死んじゃうの?と逆に訊き返されて、んんん、分かんないとしか応えられず。
昔から植物に造詣が深いオトナって素敵だなと思っていた。街や場所の描写に必ずマイナーな植物を忍ばせる小説家も同じく気が利いてるなと思う。ある時期だけ花を咲かせては枯れて行く刹那的な雰囲気が共感をよぶ。寒い間はひっそりと身を潜めて、温かくなると精をみなぎらせる。季節の躍動とぴったり寄り添って生きる植物。そんな儚い存在に気をかけるからこそ、素敵なオトナなのだろうと思う。
七人乗りの車を借りて皆で山梨県までドライヴ。ちょっとした展覧会を目指したのだった。著名な俳優さんとその多種多様な才能を炸裂させている娘さんの合同展覧会。実に穏やかなヒカリが差し込む木造平家の会場で美味しい料理を頂きながらの催し。この日ばかりは責任感に火を灯した小生、運転手としての本分を全うして無飲酒。実は、同席した人々がお酒で顔を赤らめて行く様を見るのは、なんか悪くないなとも思っている。
四月は結構予定があるの、温かくなってきたし。向かい合った6人席に座っている4人の老婆の内のひとりがぽつりと呟く。そうなんだ、老人と陽気は密接に関係している。「寒さ」は老人を引きこもらせる、と改めて気付く。確かに温かくなって老人が街に溢れている、春が到来した証しだ。桜もぷっくり咲いている。
化粧直しの為に出した手鏡かと思わせつつ、ところ構わず歯磨きを始めたオバサンは色鮮やかなスカーフを頭に巻いていた。その無遠慮な色味が当の本人の行動を象徴しているかのようで、外のテラス席で愚行に勤しむ彼女を凝視していたら目が合ってしまった。なんとも気まずい。テラス席で手鏡を口元に向けてシイシイ言いながら歯磨きをするオバサンと目が合うことなどそうそうない。「ご苦労様で〜す」的なお銚子モノ風の目配せだけを残して、急いで目を反らしてしまった自分の小ささが哀しい。
桜がいよいよ花開いた花開いたなんて喜んだのも束の間、今日もスタバでは何冊も雑誌類を席に積み上げながら、ワンセグで何かの番組を見ている愚か者に遭遇した。しかしスタバとTSUTAYAが併設している店舗の大いなる疑問は、何故に買ってもいない書籍、ましてや雑誌類までも持ち込みOKにしているのか?ということ。悠々とコーヒー呑みながら立ち読みならぬ、堂々とした座り読みの嵐を奨励しているのだから。実に解せぬ。その本を作っている人たちは決して本意ではないと思うのだけど…。その贈与関係、というか利益配分?一体誰が得をしているのかと言ったら一杯¥340のドリップコーヒーで新刊読み放題のワタシクですから。
ビートルズとは何故に永遠なのか?原発事故の責任の所在を求めて、ってまあ明らかではあるにしろ、スターバックスコーヒーでとある本を読んでいた。いや、別にその中に大いなる答えを探していた訳ではなく、現在的な思想を語る二大賢人、中沢新一、内田樹両氏の切れ味豊かな対談に救いを求めたのだった。テーマとしては現在の日本が置かれている状況、文脈をそれぞれの専門的見地から読み解くというもの。それは一切堅苦しいものではなく、賢くてユーモラスな中年の仲良しが二人、ただおしゃべりを楽しんでいるという内容。特に勇気づけられるのは、日本にもこんな素敵な言葉を発信できる大人がまだいるということだ。どこか無頼でパンキッシュ、日本社会を当たり前のように包み込んでしまっているテーゼに完全に抗う、そんな言説、姿勢に大変勇気を頂いた。一つの対談を一冊の本にまとめたのではなく、古くは2009年の対談まで遡っているので、震災後に行われたものは最後の章しかない。ただ、震災後の今読んでも違和感がないほど、一冊まるごとアタマからオシリまで、在るべき日本の未来を語っている。そして何よりも、内田樹氏が震災後の四月に自身のブログに掲載した文章、これが事故の本質をぐっさりと突いている。ど真ん中を串刺しに貫いている。本著の最後に収められているので是非目を通して頂きたい。
さて、ビートルズは何故に永遠なのか?ボクはTSUTAYAと併設しているスターバックスコーヒーでこの本「日本の文脈」を読みながら考えていた。その空間で、たくさんのミュージシャンがビートルズの楽曲をカヴァーした曲たちがエンドレスに再生されていたからだった。インストロメンタルも含め、ビートルズのカヴァー曲、すなわち他のプレーヤー、歌手によって再生産されたビートルズの楽曲はこれまで数えきれないほど耳にしてきた。それは当然、ビートルズを敬愛するミュージシャン本人の意向で作られたものも多数あるだろうが、本質として、受け手の「需要」があるからに他ならないのだと思う。世のリスナーは、ビートルズのカヴァー曲が好きなのである。
思い返してみても、えええぇ〜このヴァージョンはさすがにナシでしょうぅ〜〜というのに出会った記憶がない。オリジナルの完成度があまりに高いからこうなるのか?いや、そんな単純な理由では片付けられないはず。それは作り手、つまり焼き直しを計るミュージシャンたちの、ビートルズに対する並々ならぬ愛情がしっかりと介在しているところも大きいだろう。溢れる愛情は演奏に出るし、歌にも出る。なぜなら私自身もビートルズを敬愛する人間の一人だから分かる、何となく。聴き手の我々もオリジナルに対して愛情を傾けているからこそ、その絆は一層強くなる。
オリジナルが好きなら、カヴァーされたら逆に厭なんじゃない?という意見も聞かれそうだが、面白いことにそうではない。ビートルズの曲はあまりに「普遍的」だ、という認識が底流にあるのだ。最早クラシック音楽の名曲と立ち位置は変わらない。三百年前に作られたバッハのバロック音楽と同じ扱い、そのような存在であるという認識。この通念が、いつの間にか音楽業界も含め、社会全体を支配してしまった不思議。スタバでループするカヴァー曲集はボクにそんなコトを語りかけてくるのだった。
まあそんなことはどうでもいいとして、まだ聴いてないんだ、Roberta Flackの新作アルバム、全部ビートルズのカヴァー曲らしいね。In My Lifeはラジオでよく流れてたから耳にしたけど、アレンジが素晴らしかったのでアルバム単位で期待できるかなと。
23時入りという長い夜に立ち向かう現場が一件あった今晩です。
今日は午前中立ち寄った我がホームグラウンド、ニコ玉ライズで図らずも鶏三昧。
比内地鶏の鶏ガラ、親キモ、レバーなどを買い込んでしまった次第です。
じっくり煮込んだ鶏ガラスープはその白濁加減がすでに美味しそうであります。
親キモとレバーは甘辛く醤油で煮込んでB級グルメ感満載。こどもを保育園に迎えに行く為、妻にバトンタッチした調理、見事でき上がっていた鶏ガラスープを加えるようにとの指示を出し忘れていたのが悔やまれた。が、味はテッパンでありまして、2歳児が次から次へと胃袋に鶏の臓物を放り込んで行く様が圧巻、君の血はさぞ濃いことになりますよ。
最近なんだか気になる曲はこれ。なんでだろ?若さをテーマにした曲はなんだか染みる年頃ですかね。哀しいかな。
"Tonight we are young, so I set the world on fire, we can burn brighter than the sun."んん〜素敵な若さが萌えておりますね。
ずっと海外で頑張っている友人から一時帰国の知らせが届いて、海外に付いて思いを巡らせていた昼下がり。幸徳秋水と大杉栄関連の本を読んでいて、当時の思想家も海外とパイプを作って船旅、汽車旅の末に現地入りしていた頑張りを思うとすんげえガッツだと感服する。100年以上前だぜ?とか言いつつ幸徳秋水が密かに自分に激似だと思うんです。もう実はずーっと前から気付いていたんですが、あまりメジャーな人ではないので口に出したところで盛り上がらないよな〜と思って黙っていたのですが、気になる方は是非ウィキってみてください。そろそろ3月も終わる。
"So if by the time bar closes and you feel like falling down, I'll carry you home tonight"んんん〜素敵な若さの萌えであります。
明日は東日本大震災から一年。。
一体何ができたのか、これから一体何ができるのかを考えると
あまりにも無力な人間が一人ぽつんと立っているのがわかる。
一人じゃ何もできないけど、繋がれば力は生まれるはずだ。
そう思わせてくれる一年だったと思う。
我々はもっともっと
手を取り合って
繋がって、希望を紡いで
立ち上がらなければならない
自分に言い聞かせるように
震災で被害にあわれた多くの方々
未だ大変な生活を強いられている方々
そして未来を担って行く子どもたちに
全力の祈りを捧げたい、そう思います。
数日前グラミー賞の「Best Rock Performance」を受賞してステージに上がったFoo Fightersのデイヴ・グロール、ありゃ説得力ある格好イイ言葉だったねー。ぐっと来た来た。「ロックを語る資格のある男ランキング」のかなーり上位にランクインするよね。下手したら金メダル金メダル。しかし横浜アリーナの前座ポリシックスって、、すごくない?
ホイットニーが亡くなったニュース、、思いのほか意表を突かれた、悲しかったよ純粋に。あのファーストアルバムは永遠だからね。実は、女の子が歌う英語詞のリクエストがあると、ホイットニーの1stとキャロル・キングのタペストリーを穴が開くほど聴き込むんだ今でも、穴が開くはずないけどねMP3オーディオデータなんだから。。便利な世の中になったもんで。
この前ヘルマンの復活ライヴで一曲だけギターを弾かせて頂いたんだけど、あの歓声すごかったよ、、ありがとう。でもなんだか朝まで酒呑ませてもらってしまって逆に悪かったような気がします。みんなお疲れさまでした。
そして最近ケータリングが増えているなと。先週末もクラブキングのイベントでホットドックを出す、といったアメリカンスタイルに挑戦したし、日々新しい挑戦をすることは大切だなと感じ入る。そしてカリスマ、桑原茂一氏とお話が出来たことが嬉しく、お誘い頂いた奥さんの紀佐子さんには本当に大感謝であります。というかここは夫婦でカリスマですね、、おっと、そしてふらっと足を向ける場所場所で遭遇する中村君にも感謝です。人との繋がりにはただ感謝感謝であります。
さて、とにかくお前は文章を書け、ともう何年も自分に言い聞かせてはいるけど、気が付くとずっと本を読んでいるだけの日々はそろそろ抜け出したいです。
あと家で酒呑んでて瓶が空く度に新しいのをすぐ買いに行ってしまうクセもどうにか卒業したいです。
「声」の仕事が深夜におよぶことは滅多にないのだけど、今晩に限ってはスタジオから解放されたのはAM3時。音楽制作の現場ではまあよくある時間ではあるけど、ナレーターの仕事はなにがEって、その拘束時間の短さ。とは言っても「クライアント」のOK待ちの仕事となると話しは別で、録音が速攻終わってもその「OK」を頂くまで辛抱強く現場で待ち続けなかればならない場合もあります。そして小生もオトナとして、プロとして、いつまででも待ちます、当たり前ですが。
しかし仕事の都合により深夜タクシーでしか帰投できないコト自体は実は大好物で。それはもれなく「居酒屋タクシー」を意味するからであります。深夜に「シラフ」のままでいる自分に不思議な気分になりながら、手近なコンビニで酒、肴をホクホク顔で買い込む。帰り道の距離によって求める酒量を調整するのですが、いつもより多めに買うのがポイント。そして小生の場合、帰りの距離が長ければ長いほど嬉しい。タクシーはもちろん、悠然と流すデラックスな「個タク」だけに照準を絞ることが肝要であります。なので必然と「居酒屋個人タクシー」ということになります。
今晩は東銀座からだったので、距離は申し分ない。お目見えした琥珀エビス、お気に入りのトリスハイボールジンジャー、熟成ふなぐち菊水、それぞれ一本づつを携えて革張りシートの新型クラウン後部座席に腰を落ち着けた。
個人的にはタクシーの運ちゃんとの会話は嫌いではなく、むしろ好む口ではあるものの、中にはおしゃべりで面倒な輩もいるので決して自分から会話の糸口を作らない。今晩の初老の運ちゃんはのっけから口を固く横一文字に結んだまま、無口そうな雰囲気を一身に背負っている。小生は窓外を流れる夜の街を肴に黙って酒をすすった。
すると10分ほどして半蔵門手前に差しかかった頃に「お仕事ですか?」ときた。「はい」。するとぽつりぽつりと話し始める。業界を襲う03/11以降の壊滅的な景気、自分の職歴、現在の疾病状況。出てくる出てくる。中でもかなり突っ込んで訊いたのが、30年前までやっていた「地下鉄掘り」の仕事。炭坑夫よろしく、その昔は地下鉄のトンネルを専門に掘る職業が東京にも存在した。その方々のご苦労あって、我々は東京の隅々まで電車移動ができるわけです。
そして運ちゃんの話しの何がおもしろかったかって、当時の国土交通省の役人と営団地下鉄、実際の工事を受注していた建設業者の現場責任者などの間に当然のように蔓延っていた「不正」の暴露話。このネタどこまでが本当なのか定かではないので詳細は伏せますが、いやあ運ちゃんの話しは面白かったなあ。話し慣れしている感じから自分の十八番ネタのようで、まあ止まらない止まらない。そして目印のロイヤルホストを大幅に通り越してしまったのだった。
床下の瓶かよ、と拍子抜けというかなんというか、ゆるーく行平鍋に安置された木箱に無造作に横たわる古ぼけた試験管風の細長瓶たち、あの画像にはずっこけた。いやあ、しかしたまたま世の主婦ですらガイガーカウンターを携帯する時代になったから今回の一件も発覚しただけのことで、今回みたいなケースはそこら中の床下でありえる話しなのではないのか。と思うと空恐ろしい。この前、吉本隆明が人類は自ら築いた文明、テクノロジーの享受からは決して逆行できないとかどっかで書いてたけど、まあ自ら生み出した技術に翻弄されすぎだよ我々は。ってか自分の首を絞め過ぎ、そして自然界と他生物に迷惑かけすぎ。
さて、昨日とは打って変わる快晴、気持ち良い秋晴れ。太陽の下には夏が復活していた。昨夜はまたEDIT303のパーティで料理を20人分作ってから終電で実家に帰るという荒行。そのまま子どもらとカミさんと車で浅草入り。久しぶりに名物服屋スリラバの店主塚ちゃんと談笑。なんだか、やっぱやんなきゃ駄目だよな音楽、とこの人と話しているといつもヤル気を頂くのであった。かれこれ一年以上オキッパにしてしまっていたギター二本、機材などココロを入れ替えるつもりで持ち帰りました。
しかしニューヨークから飛び火する反格差デモすごいなぁ。『国際コンサルタント会社プライスウォーターハウスクーパース(PwC)が最近、英国の「1963年生まれ」と「93年生まれ」の世代の所得を比較したところ、65歳の時点で93年生まれは25%、金額にして40万ポンド(約4900万円)も63年生まれより貧しくなるという結果が出た。』
確かに怒るには充分の金額であります。
とうとうNHKがニュースとして流した「世田谷で高い放射線量」、まさしく先日ここで書いた場所です。はあ、しかしなんて時代になってしまったのだろう、と単純にそう思うだけです。明日、子どもたちの保育園で「芋掘り」というかなりオールドスクールな行事が執り行われ、上の娘はとくにNori-Noriで楽しみにしている。当たり前か…。あのふかふかな畑の土に両手をぐわしぐわし埋めては掘り起こす原始的な作業、キモチEもんな〜。
そんなことですら「どうなんだろ?危険ではないのか?」などと危惧して我が子らは行かせない保育園で留守番、みたいな仕打ちはどう考えても可哀想だ。でも放射能汚染のリスクから最善の策をもってして子を守るのは親の責任です、という考えも強力な力を帯びているのは事実です。「目に見えない敵」だから尚さら、その防御壁は神経質なほど高くなって行く構図…
現在の放射能汚染に関する「先の見えない不安」、これは実はこれからどんどん数値化されては確実に明らかにされてゆく「現実」に向かって行っているプロセスでしかない。悲しいかな。
近い将来その「現実」と向き合ってしまったトキに、果たしてそれを回避する「最善」をしていたか、してあげられていたか?そんな鬱屈とした未来に立ち向かうべくして行動するのが、今を生きるオトナの責務なのでしょう。
天災地変、半世紀前の国政と東電、いまの政治、メディア、陰謀、それら数え切れない理由の積み重ねへの怨念、絶望、憤怒、諦観、軽蔑、偏愛、切望、抱えれないほどの情感を抱いては可能な限りの明日を夢みるのが、今を生きるオトナの責務なのでしょう。
秋のブタクサというやつ?この忌々しいアレルゲンによってここ数日想像を絶するほど苦しめられているのです。小生の洟水は滝のごとく、くしゃみは天空を突く昇竜のごとく、ひたすらアンスタッパボー。やった、本日は幸い雨降りだから花粉の飛散量も幾分落ち着くんだろうな、良かった良かった、なんて油断して一歩外に足を踏み出したら最後、いつも以上にすんげえの、しかも異様にさみーしさ、もうどうなってのよって憎しみの矛先が定まらぬまま目の前で絶妙な湯気を上げるロイホの看板のハンバーグにこの鼻をずぼっと埋めたい、その肉片を手につかんでこの始終むず痒い両眼にこすりつけたい妄想にかられる。すると雨で濡れたてゅるてゅるの赤タイルに足をとられて腰元がぐらっとなって、背中からぐきっと音がした気がして、身体がくの字に折れた。ココロも折れた。
昨日、妻のツイッターで我々の住居から徒歩5分くらいの場所で非常に高い放射線量が確認されている場所があることを知る。それは驚くことにとある住宅の「壁」から検出されているらしく、しかも3μSvというここらじゃ考えられないほど高い数値なのだった。近隣の親御さんが情報提供してくれているツイッターでその場所が特定できたので、居てもたってもいられず、すぐに現場検証に向かった。
検討を付けていた場所はやはりビンゴだったようで、現場に着くとそこには作業着の人間数人とネクタイを絞めた役所系一人が問題の住居のまわりでちょうど作業をしている。明らかにことを荒げないよう、ひっそりと業務を遂行している様子である。いや、出来る限り目立たないようにコソコソしている、という方が近いか。家の外観からして古い木造の建物だが、まさかここからそんな高濃度の放射線が出ているなど夢にも思わない。
ぐるりと周りを流したあと、そのネクタイさんに話しかけて状況を聞いてみる。近隣住民から申し出を受け、本日区長の命令で調査しに来たとのこと。詳しいことは分からない、まだ実際の数値も計測していないし、ボクの口からはそれ以上のことは言えません、といった意味の陳述を受け、なるほどなるほど、では後日インターネットかなんかでこの結果を報告してくださるのか?といった内容の質問をすると否まだボクの口からは何も言えないと仰る。
隣のヘルメット&作業着のおじさんはへらへら顔をぶら下げて、まあここだけなんで少し離れれば大丈夫ですよ全く問題ない、などと油断をぶっこいている始末。はあ、100メートル圏内に保育園と幼稚園がひとつづつ建っていてこの日も子どもたちは元気に園庭で走り回っていて、その裏道は通学路としても人通りはけっこうある。そんな場所から3μSvとは一体なにごとだ?と信じられない気持ちだが、揺るがない現実が目の前にしっかりと存在していた。
一日も早くこの対応を世田谷区に望みたい。
今週は笑けるほど暇です。本来ならば笑ってはならないほど暇なのであります。
一曲、もう二月前から曲をもらっている作詞の作業が暗礁に乗り上げたままでいるのだった。これは名古屋に住む作曲家の友達とのプロジェクトでハマるところにハマれば相当Eはずの楽曲で、ああああ、今日明日で仕上げることを誓う。ここに誓います。
書かなきゃ作らなきゃの気持ちだけじゃ何も生まれないことは当の昔から知っているはずだ。起き上がれヒラトコ!
建物の隙間から見える多摩川の花火を見ながら極上の料理&イモ焼酎を頂いた土曜日の記憶はまたしても最後にむかって薄ぼんやりして。眠くならないはずだった鼻炎薬にぐってんぐってんに眠たくされたのが追い打ちとなったり。近頃とみに、呑み過ぎると寝入りまでの記憶がまずないのが常であって、小生の脳細胞は崩壊の度を極めつつある。
にも関わらず日曜は仕事および然したる予定もないことを良いことに、昼間っから酎ハイを煽ってしまう駄目な父親は公園で子どもらを散らしては濁った眼で晴れ渡った秋空をぽっかーんと仰ぎ見る。そんな態でベンチに座って惚けていると、もうこれこそが至福のときなのだと強く思えてくるから恐ろしい。
そのうち腹減り虫が二匹、ぴーぴー泣き始めたので一旦帰投、超特急でビーフンを思いつくがままに料理したらこれがミラクルに旨い。先発メンバー仲間入り決定の瞬間をみた。
もう随分前にテレビを打ち捨ててしまっているのですが、ユルい日曜夕方にちび丸子ちゃんとサザエさんに会えなくなったことだけが唯一悔やまれるポイントです。
とうとう10月に。季節はすっかり入れ替わってしまって風がもう完全に秋です。冬の寒さに向かって行くしかない運命にあるこの季節は、何かとノスタルジックで非常にやり辛い。特にあのキンモクセイの匂いが風に漂って鼻腔を刺激したりするともう駄目で、嗅覚が揺り起こす古い記憶が面倒くさくてならない。そんなときは少し肌寒いくらいの夜風にさらされて、ギンギンに冷えた白ワインを無理矢理呑むのが好きだったりします。
昨日今日とasaco、アツミ、かえる先生の合同ワークショップ@edit303でまた昼ご飯を担当しました。素晴らしいクリエイター、デザイナー、しかしみんな頑張ってるよなあ、世の中と面と向かって対峙、勝負してるよなあと思わせてくれる方々で、我が身を見返すと甚だ殺風景であります。足下をつむじ風がぴゅーっと一陣吹き抜けて行く思いです。
今秋、寂しくなったら酒を呑むという癖を根絶するよう努力します。
本日は月例のお仕事のために豊島区は池袋の地に下り立った。
はじめにお断りさせて頂きますが小生、池袋という街が好きではありません。
そもそも自分の用事はサンシャイン60。その昔は巣鴨プリズンがあったその跡地です。ってそんなこたーどうでもEとしても、思えばこの3年くらい月一でこのサンシャイン60に通うのが恒例となっていまして、実はこのビルが案外駅から遠いの。遠いだけならまだEとしても、まあ天井の低い地下通路の雑踏やら、地上に上がっても下品な店店が有象無象と軒をなす街頭、偽りのマスクを被ったティッシュ配りやら携帯電話の売り子やらをやり過ごしても、尚そこには浮き足立った若者が右往左往する往来が口を開けて待っているものだから、わずか200メートル進むにも辟易する。ああああああ、嫌だなあ、この街、と毎回思うのであります。
いやいや、それは池袋に限ったことではなくて、それこそ渋谷なり新宿なり六本木なりの方がその混沌としたメガロポリス的な雰囲気では勝っているのでは?という声も聞こえてきそうなものですが、これがまた違うのであります。
不思議なもので街という街、隣り合っているにしても必ずそれぞれのカラー、個性を持っています。渋谷と原宿、渋谷と表参道、渋谷と恵比寿、渋谷と代官山、それぞれ隣り合わせている街街にも関わらずお互い我関せずとまでは言わないまでも、着かず離れずな絶妙な距離感を保ってそれぞれの個性を伸ばしてきた感が伺えます。
東京という街の成り立ちから考えたら、やはり窓口となる中心部の駅から発展していったと考えるのが妥当でしょうし、古くからは新橋、上野、新宿、あたりが地方からの入り口として機能した駅になるのでしょうか。憶測が多分にありますでご容赦頂きたいのですが、ってああ、説明がくどくて長くなりそうなので、バシバシ要点だけ言わせて頂きますが、、
上野、神田界隈、新橋、銀座界隈は戦後の復興期はそれなりにオシャレなエリアとして発展した街として、それぞれ衰退の度合いは違うにしろ、当時の一線を張った気概を現在も残している。上野なんかは微妙じゃね?なんて声も聞こえてきそうなもんですが、あの街は世論に流されることなく自分を貫いている姿勢が感じられる。新橋が持つ地元密着型の呑屋街は今も健在、天下の銀座は言わずもがな。
そして新宿は大正期に中村屋が発信した国際色、60'sのゴールデン街文化よろしく、寺山修司、中上健次、荒木経惟的な世界観。歌舞伎町界隈は良い悪いは別にしても、一本筋の通った存在意義が根底にあります。雑多であるが、「うわっついた空気感が街を支配していない」。
そう、これこそが最も重要なのであります。池袋という街は「うわっついた空気感に完全に支配されている」のです。この街の個性をどこに位置づけて、どのようなカラーを打ち出して行こうか腐心している人間などひとりとしていないでしょう。取り合えずたくさん店あるしたくさん人集まるしイッパツ店でも出してみっか的な店で溢れ返っている。だから、池袋行けば店たくさんあるし、取り合えずイッパツ行ってみっか的な人間しか集まっていないのだと短絡的に思えるくらい、往来を闊歩する人種もなんともうわっついた奴らばっかりなのだから恐ろしい。
いやはや、かなり個人的な好き嫌いが入り込んだ、実に偏った小物の意見でありますが、上記の理由で小生は池袋という街が好きになれない。
通うようになって一年ほどして、サンシャイン60は実は有楽町線の東池袋が最寄りだと気が付いて以来、非常に快適に東池袋の裏通りを通って向かっています。あのうわっついた雑踏に揉まれることなく、快適快適。
最近、作家檀一雄が友人太宰治&坂口安吾との交友録を収めたエッセー集を読んでいて、太宰治と放蕩の限りを尽くしたエピソードにも頻繁に登場した戦後の赤線地帯「玉の井」がなんだか自分の中でクローズアップされていて。そこは吉行淳之介の「驟雨」という傑作小説の舞台にもなっていて、その時代背景が醸すロマンチシズムとか、生命力とか、怠惰な性の原風景とか、なんというか失われた日本の排他的な美意識というのか、なんだか非常にその「亡きものとなった街」に興味を持っていて。そもそもその頃の作家が好きだということもあると思うのだけど、ちょこっと興味を持ってググってみたらなんとその街が展開していた場所が本日用があった友人夫婦が居している場所のすぐそばだった。
夏前ころにその事実はつかんでいたのだけど、今の今までパトロールに行けずにいたもんで、まあ今日こそはふらっとその旧花街を歩いてみたいと思ってでかけたのだった。それも当時の淫売宿は細かいカラフルなタイルを壁面に貼付けた建物であって、それが半世紀以上経った今も残っていて、しかもそれらは現在も住居として活用されているというのだから時代を越えたロマンが炸裂している。個人的には非常にぐっとくるポイントで。
さて、その街が存在していたのは今は「鳩の街」商店街として昔ながらの八百屋や定食屋が軒を連ねる道幅も5,6メートル程しかないとても細い横丁といった風情。入り口の水戸街道からわずか200メールほどの商店街で、建物は隣通し壁をくっ付けひしめき合っている。現在は明らかにその活気を失った閑散とした姿ではあるものの、その昔の賑わいを空気の中に感じる気がした。入り口から終わりまで、両脇の建物を丁寧に見て歩いたけど、残念ながら当時の姿を残したタイルを貼った建物は一件しか発見できなかった。今も人の営みが存在する建物ではあって、時代のロマンスをひとり噛み締めて歩いたのだった。といっても所要時間わずか10分たらず、車が出発までの寸暇を使ってきょろきょろしたまでのこと。
今度はもっとゆっくり酒でも片手にぶらりと歩いてみようと思った。
いやはやね、もう気付けば9月の給料日も過ぎ去ったほどの月末期、言ってもヒラトコに給料日もへったくれもありませんが、しかし夏の後ろ姿はどんどん小さくなってしまった。季節の変わり目ということで分かりやすく体調を崩す人間が激増する昨今で、当たり前のように我が家にも病魔の足音が忍び寄っている気がしてならない。とは言ってもやはり「病は気から」を強く信じたい、そんな暗示にかかったふりでいたいサイドの小生は毎度毎度、精神的な気合いで近寄ってくるウィルスの類いは追い払っている。気でいる。今年は特に午前中の筋トレorプールを避暑目的な週3日のサマータイムな日課としてから風邪なんかに負ける不安など微塵もない。気でいる。
しかし持病の喘息はどうしようもないのは正直なところで、日々のステロイド吸入薬が欠かせない。手放せない。こんな低気圧オンパレードな秋口は本当に気管の調子が悪いの。特に声を出す仕事をやっているとそこんとこシビアにならないとね、駄目で。ま、国から認定を受けた「公害患者」のひとりとして治療に関わる一切の免除を受けているので金銭的な心配はいらなくなった。って喘息持ちの人は是非最寄りのアレルギー科のクリニックにでも足を運んで頂き、この魔法の医療書を申請すると宜しいよ。マジ全額タダだからね。意外とあまり知られていないので小耳に挟んで欲しいネタ。
さて、この度自分のwebsiteを開設してみました。及んでいる仕事が多岐にわたっているので軽く収拾が付いてない感は否めませんが、パッと見こんなことやってるんだコイツ、って雰囲気が伝わればなと思って、、今後ともひとつヨロSICKお願いします♨